都電でGO!

同人誌『トーキョー・コスモポリタン』の番外編です。オリジナルキャラクターが出ています。LHLのハリウッド追放エンド後、日本で新しい生活を始めたばかりの頃のお話です。





 大矢は煎茶碗を置き、小紋の袖をそっと摘んだ。中井は黙って急須から適温の玉露を注ぎ足した。
「とっても美味しいわ、玉露。ホントに中井さんはお茶を淹れるのが上手」
「ふふふ。玉露だけは先代に仕込まれましたからね」
 二人は親子ほど年が離れているが趣味が近く、話が合った。
 雇い主と使用人だったが関係は非常に良好だった。年の若い大矢にとって、経験豊富な中井は頼りがいのある友人であり、何か問題があれば二人で相談するのが常だった。

 二人の目の前の卓に分厚い封筒が置かれてある。二人は目を見合わせてため息を吐き、どうしたらいいものかと、相談を始めた。
 この封筒は、離れを借りた若いアメリカ人から渡されたものだった。大矢の所有している離れは、世話も素晴らしいが家賃も破格で、時々気難しい作家の缶詰に使われることはあっても長期間の契約は今まで無かった。その高い家賃を彼らは現金で一年分前払いした。

「一体何なのでしょうね…、中井さん、どう思います?」
「さっき朝餉をお持ちしたら眼鏡を掛けた方にこの封筒を――」
「何かお願いされた?」
「プリーズ…って言われましたから、お願いはされたと思うんですがね…。何をお願いされたのか分からなくて…。あの方たち、日本語は全然分かりませんから細かい話は難しい…だけどもう一度聞いてみます」


 中井は、契約の時に離れを見に来た二人を思い出した。
 江戸から残る由緒ある旗本屋敷の離れ、すべてが磨き込まれ、四季折々に表情を変える庭木の手入れも完璧だが、大矢がお茶の稽古をつける他に人の出入りは無かった。それが多少寂しいと中井は思っていたので間借り人が出来ることは歓迎だった。しかし、予想に反してやって来たのは二人のアメリカ人青年だった。

「How do you do.Nice to meet you.」
 と、二人から英語でにこやかに挨拶を受けた後、大矢と共に離れに向かった。二人は何やら英語らしき言葉で楽しげに話しながら、磨りガラスの引き戸の向こうの玄関に入り、土足のまま家の中に上がり、廊下に向かおうとした。中井は必死になって身振り手振りで説明し何とか靴を脱がせることに成功した。
 眼鏡の男は背が高く、短い時間に何度か鴨居に頭をぶつけていた。
 中を見終えると、すぐに二人とも笑顔でOK、OKと言った。
 眼鏡の男がしきりに繰り返すのは「one year」だったので、一年契約したいのだと何とか理解出来た。すぐに彼らは横浜のホテルを引き払って移り住んで来た。


 十日間ほどは慌ただしく過ぎた。
 朝と晩の食事を運び、彼らが外出している間に掃除をし、頼まれれば洗濯をする。特に不満もないようで何の申し入れも無く安心していたが、今朝、眼鏡の男にこの封筒を渡されて「プリーズ」と真剣な目で頼まれたのだ。


 中井から封筒を受け取った大矢は中身を確かめてみた。厚さ五分ほどもありそうな、手の切れそうな新券の束が入っていた。数えてみると、離れの半年分の家賃に相当する金額が入っていた。
「お家賃はもう頂いていますからこれは一体何なのでしょう?」
「――というか、あの若さでこの金離れの良さ…、日本に逃げてきた大悪人じゃないでしょうね」
「え? こわいわ、中井さん…。でも悪い人じゃなさそうだけれど…」
「ええ、でも、柔和に見えて目つきが鋭いんですよ。隙がありません。そうですね…『仁義を重んじる人たち』の親分に似た雰囲気ですよ、あれは」
「特に危険な感じはしないけれど…。ねぇ、もしかしたら必要なものを買い揃えたいんじゃないかしら。持ち込んだ荷物がとても少なかったって言って無かった?」
 大矢の湯飲みに玉露はもう無かったが中井は注ぎ足そうとしなかった。大矢が玉露を二杯以上続けて飲まないのを知っているからだ。
「――そうですね…。では銀座に誘ってみます。百貨店なら全部揃いますし。それと、今日は早めに帰ってもいいですか? 本屋に行きたいのですが」
「ええ、もちろんいいわ。よろしく、中井さん。あ、雑誌が出ていたら買っておいてもらえるかしら?」
「ええ、映画と宝塚のですね。わかりました。では、明日」
 大矢のいささか楽天的な考えに危惧を持ちながら、契約は一年間なのだと思い返し何とか乗り越えねば、と思いながら中井は居間を辞した。

「デルモンテさん。ここが銀座です」
 都電――路面電車を降り、中井はジャンにゆっくりとした日本語で話しかけた。タクシーを使っても良かったが、東京で生活する以上、これに乗る機会もあるだろう。その時に戸惑わずに済むよう、あえていつも混んでいる都電を使った。
「ギンザ!」
「はい、銀座です」
 と、停留所のローマ字を指さして教える。
「ギ・ン・ザ」
 ジャンは嬉しそうに繰り返す。
 ベルナルドには用事があり、中井は今日、ジャンと買い物に出かけて来た。

「ノー、ノー、デルモンテ、ノー。ジャン、ジャン、ジャン」
 若い、まるで西洋人形のような金髪の男は自分を指さしてジャンを連呼する。多分、ジャンと呼べ、と言っているのだ。中井が深く頷きながら「ジャン――さん」と呼ぶと、男は「OK,OK!」と嬉しそうに笑った。その笑顔が頑是無い子どものようで、なるほど、これは、あの眼鏡の男が念弟として愛でるのも分かる、と中井は思った。
 引っ越しの数日後、中井は彼らが念者と念弟の関係であることに気がついた。大矢にはまだ話していない。

「百貨店に行きます。あのビルですよ。一番上の階から見て行きましょう」
 言葉は違えど同じ人間、とばかり中井はいささかの迷いもなく次の行動に移る。昨夜、彼女は大学生の息子を通訳に立て、間借り人二人の意志を確認したからだ。
 昨年完成した立派なコンクリート造りのビルを見上げて、ジャンは楽しそうに口笛を吹いた。


 大きなライオンの像を横目で見ながら開店と同時にデパートに踏み入れる。中井は若い女店員がジャンの美貌に見とれているのをほほえましく思いながら、良く知っているデパートのフロアーを進む。中央ホールでは大きな東洋の女神像が二人を見下ろしている。ふと、隣にジャンが居ないので振り向くと。ジャンは女神のエキゾティックな眼差しに目を奪われて動けなくなっていた。
 中井は瞬間息を呑んだ。天窓から降り注ぐ光を浴びた東洋の女神が、金色に輝いているジャンに祝福を与えている――ように見えたからだ。

 何事かを呟いているジャンを見つめ、中井はいつもより大分重いハンドバックから一枚の紙を取り出した。息子が二人から聞き取って作った買い物用の覚え書きだ。
 眼鏡のオルトラーニ氏は「出来るだけ日本の伝統的な生活をしたい」と言っていた。
(まずは――寝間着)
 女神と見つめ合っているジャンに中井は穏やかに声を掛ける。
「ジャンさん? レ…えっと……行きますよ」
 中井は少し口ごもってからジャンに笑いかけた。
「オウ、ソーリー、ナカイサン。オッケー、ウ…、イェス、ホエア? ア、アンド、アイウィルキャリーエヴィリシング」
 一生懸命にジャンは言葉だけでなく身振り手振りで意志を伝えようとしてくれている。中井は了解のしるしに大きく頷いた。
「分かりましたよ、ジャンさん。荷物はよろしくお願いしますね」


 茶碗、湯呑み、汁椀、箸と箸箱を買った後、一階下の呉服売り場にジャンを連れて行く。寝間着になる浴衣地を買うためだ。
「すみません。浴衣地を見せてもらえます?」
 売り場の奥に向かってにこやかに告げると、店員は「承知しました」と、棚から反物を持って来た。
「あら…違うの。男物が欲しいのよ。こちらの――あら?」
 ジャンは売り場入り口のマネキンをじっと見ていた。マネキンが着ているのは華やかな京友禅の振り袖で、地模様のある薄い駱駝色の絹地に四季折々の花が染められて、所々に金糸銀糸の刺繍が入った見事なものだった。
(あら…。ああ、振り袖が珍しいのね…)
「ジャンさん、浴衣地を選びましょう」
「ソーリー、ディスキモノイズベリィアタラクティブ…」
 背後から声を掛けられて、ジャンは少しだけ気まずそうに笑った。
「ジャンさん、それは『振り袖』というの。フリソデ」
「フリソデ」
「今日は誰も着ていなかったけれど、お正月になったら若いお嬢さんが振り袖で歩きますよ」
「オショウガツ。ワット?」
 首を傾げて目を覗き込まれ、中井は、曖昧に笑って誤魔化した。しかし、今日こっそり持ってきたハンドバッグの中の固いものを意識せざるを得ない。


「…お客様はとても背が高くてらっしゃいますからこの幅では少し足りないかも知れませんね」
「ええ…そうね…」
 中井はジャンより背が高く手足の長いオルトラーニ氏の事を考えていた。着丈もそうだが裄丈が随分とあるだろう。どのみちこの幅の反物で浴衣は仕立てられない。そう考えて中井は背の高い彼らの為、幅広の浴衣地を注文することに決めた。浴衣を中井が縫うと知ったジャンは驚いていた。着る物はすべて和服屋が縫うものだと思い込んでいたらしい。
「着物は縫うのが簡単なのでみんな自分で縫いますよ」
 中井は柄の見本帳を捲って、ジャンと二人で柄を選んだ。

 そうこうすると昼になり、ジャンがジェスチャーで空腹を訴えた。
 今日、中井はデパートの最上階にある大食堂で昼食を取ることに決めていた。和食も洋食もあり、洋食の品書きには英語も添えられていたので、ジャンが自分で好きなものを選べると思ったからだ。昼の食堂は満席に近かったがしばらく待つと席に案内された。
 外国人はただでさえ目立つが、ジャンは特に目を引いた。美しい金髪、白い肌、スーツが似合っている細身の長身。案内されたのは明るい窓際席だったが中井が上座をジャンに勧めると彼は首を傾げて荷物を置き、背をぴしっと伸ばして中井を手招きした。何事かと怪訝に思っていると椅子を引き、にこにこ笑いながら「プリーズ、ナカイサン」と微笑んだ。
(ああ――。西洋式なの、ね…)
 断っても多分ジャンは譲らないだろう、と思った中井は周囲の視線を痛いほど感じながら腰掛けた。
「ありがとう、ジャンさん」
「プレーゴ、ナカイサン」
 中井はいつも頼む定食に決めていたので、メニューをジャンの目の前に広げた。メニューにはカツレツやカレーライス、ハンバーグステーキなどが並んでいて、ちゃんと英文でもメニューが書かれていてジャンは熱心にメニューを見ている。
(…何を選ぶのかしら…。今まで食事を残した事は無いけれど、何が嫌いなのかは聞いておかなきゃね)
「オーケー、ナカイサン」
 ジャンはにこにこしてメニューを閉じた。
「いいのね? じゃ、給仕さんを呼びますよ」
 中井はそう言って給仕を目で捜した。
「ノーノー、ナカイサン。アイウィル」
 ジャンは笑うと、美しい――そうとしか形容の出来ない指の動きで給仕を呼んだ。


「…いいかしら、ジャンさん、こうですよ」
「…オーケー」
 中井は右手で箸を持ち上げ、左手を添えて箸を持ち直す。ジャンはその仕草を凝視しながら同じように箸に指を伸ばす。
 二人の目の前には同じ『本日の定食』がある。ジャンは中井と同じ和食を注文したのだ。中井はジャンのために、フォーク、スプーン、ナイフを給仕に頼んだが、ジャンは箸で食事すると言って聞かなかった。
 危なげな箸遣いで「オー、ディフィカルト…アイマストプラクティス…」と呟きつつ、それでも何とか最後まで突き箸をせずに定食を完食したジャンはとても満足そうだった。好き嫌いも無いらしく、さわらの幽庵焼きや香の物まで全て平らげた。


 抱えきれないほどの荷物を持ち直しながら、これを使ってあの部屋でベルナルドとの新しい生活が始まる、とジャンはわくわくしながらも少しだけ切なくなり、舗道で足を止めた。中井は切なげな目のジャンを見上げる。
 この青年は、異国で頼るもののない、二人だけの生活をはじめるのだ。どれだけ心細いだろうか。
「ジャン、さん。…えっと……。…レッツ・ゴー・ホーム」
 中井の口から発せられた英語にびくりとしたジャンは、次の瞬間、綺麗な蜂蜜のような瞳に滲ませるように喜びを浮かべた。
「レッツ、ゴー…ホーム」
 中井は緊張しながらなおもその一言を繰り返す。
 彼女は重大な何かを決心したようにハンドバッグの口金を開けた。ぱちん、と音がして浅いバッグの中から取りだしたものは真新しい、英和と和英が一冊になった英語辞書だった。表紙をめくると、紙が挟んである。息子に書いてもらった英文だ。その下にはカタカナのふりがながみえる。
「ア、アイ…アイスタディードイ、イングリッシュビフォア、バット、バット、えっと、あ、アイムプアインイングリッシュ。ソウ――ディスディクショナリ…イズ――」
「アンダスタン、アンダスタン、ナカイ、サン。アイルスタディジャパニーズランゲッジ、アンドアイド――アイ、ライク――」
 言いながら感極まったらしいジャンは中井を抱きしめた。
「ジャン、さん…っ!」
 銀座の真ん中の百貨店の玄関で息子より年下の、しかも外国人に抱きしめられているこの状況をなんとか打開せねばと中井は着物の袖をばたばたさせて抵抗した。
「離して下さいっ! えっと――」
 女学校で、古典ばかりじゃなくもっと真面目に英語を勉強しておくんだった、と中井は真剣に後悔した。彼女の必死の形相を見て意を察したジャンがゆっくりと手を緩めた。
「アー、アイムソーリー、ナカイ、サン」
 雑踏の中、申し訳なさそうにしょげているジャンを見て、ナカイは不覚にも自分が悪い事をしたと錯覚した。まるで雨の中に捨てられている生まれたての犬か猫のようだったからだ。
 辞書を取り上げて、辞書を引く。字が小さくて読みにくいがなんとか単語を見つけた。ラッキーにも横にはこの場に最もふさわしい使用例が載っていた。
 小さな子どもに対するように、道路の向こうの店を指さしながら中井はゆっくりと言った。中井は大矢からその店での買い物を頼まれていた。あんパンを売っている老舗だ。
「サムシングスィート、ユーライク?」

 大通りを横断しながら、中井の英語に興奮しているジャンが、何か、中井には全然分からない英語を早口で言っている。中井はそれを聞きながら思った。
(契約は一年間。一年経ったらお互い、英語も日本語も上達するかしらね…)

 二人で笑い合って見上げた春浅い青空に、一筋の雲が流れていた。



おしまい




同人誌『トーキョー・コスモポリタン』に出てくるナカイさんとジャンが買い物に行くお話です。同人誌から引用しますと、こんな感じです。

*********引用
 外国人向けのホテルから下宿に移った当初はゲンカンで靴を脱ぐのにすごく抵抗があったけど、慣れてしまってからはいつだって泥で汚れていない床やタタミにごろりと寝転がれるのはすばらしいと思うようになった。
「ベッドに組み伏せるのとはまた違う隠微さがあるね…」とかコきやがって、ベルナルドが唐突に妙なイメプレに走るのが困りものだけど、タタミの独特な草の匂いとか背中がに当たる感覚は嫌いじゃない。
 宿を移って早々、世話をしてくれてるナカイさんに俺たちの関係がバレた。
 一応、ハナレっていう独立した部屋を借りてたけど、アンラッキーにもバレた。紙で出来た建具の向こうに声や音が筒抜けだったらしい。それを知ったベルナルドが慌てて金を包んで口止めをしようとした。が、ナカイさんは俺たちが慌てているのを訝しんだだけだった。
 少し仲良くなってから聞いたけど、彼女が恐れていたのは、俺たちが犯罪者だったら、という事で、ジャポーネでは昔からその、男同士の――まあ、そういう関係は特に禁じられているものではないらしい。
 すげぇ、ジャポーネ、まじすげぇ。

*********引用終わり

ベルナルドはお金で口止めを図ったのです(笑)。
銀座をジャンさんが歩いてるの見たいなーと思って書きました。

2012.3.15〜4.4


 



「デパート話読んだよー」
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