ベルナルド・オルトラーニ氏の痛恨と幸福
Deep regret and great happiness of Bernardo Ortolani.
最低限の安全を確保するためだけの照明。一人でその小さな明かりを頼りに階段を下りる。金属の踏み板を踏むと、革靴の固い踵が立てる音が反響する。
昔ながらの煉瓦を敷き詰めた床に降り立つと、ボイラーの熱気がスーツに染みこむ。外気はまだ冷たいがここは暑くて湿っている。壁の煉瓦は蒸気でぬらぬらと光っていた。俺はここでジャンと会うことになっている。
(四日ぶり、か…。一度も報告がなかったのは情報員として失格だが潜入が上手くいった、ということではあるか)
地下のボイラー室には業者が使う鉄扉があり、俺はその鍵を外して待つ。
(ふう…。――まるで熱帯雨林だな。葉が湿気ちまうな…)
ゆっくりとハバナの最上の葉を楽しんでいると鉄扉が軋みながら動いた。待ち人来たる、か。腕時計を見ると五分遅刻。
「おまたせー…」
細い身体がするりとボイラー室に滑り込むと手がだるそうに帽子を掴んでずるずると取った。埃を被った長い髪がすすけた顔にはらりと落ち掛かった。かきあげた指の爪が土で汚れたままなのに眉が寄った。
ジャンの綺麗な手が土で汚れている。
全身を視線で犯すようにチェックしているのを悟られないようにビジネス口調で切り出した。
「…五分遅刻だ、ジャン。さて、いい報告なんだろうな?」
わざと作った俺の厳しい声にジャンが少しうなだれる。
――しょうがないだろう、この四日間連絡が来ないことに俺がどれだけジリジリしたか!
「……これ――ざっとだけど纏めといた」
土ぼこりにまみれたシャツのポケットから紙を摘み上げると差し出された。受け取って開くと細々と数値がメモされた設計図が鉛筆で描かれている。…すばらしい記憶力だ。早速図面屋に清書させてカヴァッリ幹部に提出せねば。
「完璧だ。すぐに手を打つよ」
我知らず声が高くなる。
「あーーん、もう、楽しかったーー!! 造園なんか全然分からないけどさ、身体動かすのはやっぱキモチいいな!」
褒められて嬉しそうなジャンが髪をゴシゴシ擦った。埃にまみれた金色が覗く。
「まったく、すばらしいよ、ジャン。はは……これでカヴァッリ幹部の覚えがめでたくなるのは確実だ」文字通り『手を汚して』ジャンが持ち帰ったのは春のデイバン・ガーデン・フェアで人気投票用にCR:5のライバル会社が作る小さな庭の情報だった。この二年、続けてCR:5は惜敗を続けている。俺は日雇いのたまり場にジャンを送り、潜入させ、ジリジリしながらジャンの帰りを待っていた。四、五日の音信不通の後、昨晩遅くに電話連絡があった。
ジャンは盗み見た図面を覚えて正確にメモを作っていた。全体の形、花の種類、株の数。色の配置や盛り土の高さまでが書き込まれている。これだけ詳細な情報を記憶し整理して書き出せるのは超人的な記憶力だと思う。
「これだけの情報…感服するよ」
「あ? ああ、俺、現場でも仕事させられたからねー。高さとかは確認しながら覚えられたから楽だった」
「はは。俺には無理だな」
「あんたは論理思考タイプじゃん」
「はは…」
「あー、ベルナルド。そういえば俺のシャツ、どうした?」
「え?」
煙草の煙に咽せそうになって焦る。
「ほら、このまえここで渡したろ? あの白いシャツ」
「あ、あれ、は――捨てたよ。垢だらけで臭かったし…それに袖がほころびて小さな穴もあったからもう着ないと思ってウエス置き場に置いた。多分もう誰かが使った後だと――思う…」
「えええええ!? マジで !?」
ジャンが盛大に眉を寄せて叫んだ。目がマジだ。
「ひどっ!!! あれ、すっげー気に入ってたんだよなー。…な、おまえにもない? そういうの。もうへたれてるんだけどヘビーにこき使っちゃう服」
「あ、あ…あるね…」
つつっとカーディガンの上から胸を突かれて心拍数が上がる。ちきしょう。
「ベルナルド、おまえが捨てたシャツはそういう思い入れのあるシャツだったわけ。それをおまえはウエスにしたわけ。俺の歴史が染みこんだかけがえのないのを! おまえが…! 可哀想な俺のシャツ…。う、うーーーっ 。」
ジャンは肩を震わせて泣き始めた。袖口で涙を拭っている。
「あ――ああ……ジャ、ン?」
急展開に気が動転してしまう。あのシャツがそんなに大事なモノだったとは…。
煙草を吸って落ち着こうとするが、湿気を吸って不味くなっている。指が震え始め、ボイラーの熱気も手伝って汗が止まらない。
俯いているジャンを見ると、頭が小刻みに揺れている。どうやって謝ろう。
「ジャン…その――。悪かった…許して欲しい。どうしたらいい?」
ジャンがゆっくりと頭を上げ俺を見る。目が潤んでいて、その、何というか――ああ、何て艶っぽいんだ!
「じゃ――さ、今度上等コットンシャツ買ってくれよ! 最下位だけど幹部殿だもんな、シャツの一枚位楽勝だろ?」
一も二も無く俺は要求を呑む。
「あ? はは、了解した、ジャン。」
…ああ、おまえのおねだりなら最上級のシャツをダース単位でいくらでも。正直ダース単位は今は無理だが、いつかきっと。ジャンが腹を抱えて笑い出した。笑いすぎてバランスを崩しジャケットが濡れるのも構わず煉瓦塀に寄りかかる。
「ぷ、ぷぷぷ。おまえホントひっかかり易いのな! 幹部なんて腹芸してナンボじゃねーの? 大丈夫? 苛められてるんじゃね?」
「え…」
「ぷは! あれは愛着はあったけどタダのボロ。で、俺は泣き真似だけで上等のシャツをアンタから買ってもらえるわけ。騙されやすいんだから、ダーリンったら」
怒っていないと分かってほっとするのと騙されたと思って小憎らしく思うのが混じり合って大層複雑な俺に向かってジャンは屈託ない。
「あはは、楽しかった! じゃ、また何かあったら呼んでくれ」
「あ…? …もう行くのか? 礼に一杯奢ろうと思ってたんだが…」
なんとか引き止めたい俺にジャンは自慢そうな笑いを浮かべた。
「うふふ。俺を待っててくれてるオンナがいんの、実は! すぐにいい匂いのするベッドにしけ込むつもり――って何言わせるのよ、マイ・ダーリン」
「自慢したいのか? はは、そうか、女か」
「じゃ!」
投げキッスの尖らせた唇を見て胸がズキン、と痛んだ。永久に言葉にしてはいけない思いが胸をギリギリと締め付ける。
一度でいいからその唇にキスしてみたい。強く抱きしめて鼓動を感じたい。愛撫して口を開かせて喘ぎと甘い舌を味わいたい。行き場の無い強烈な欲望が沸き上がる。
ああ、ああ。俺は何て可哀想なんだ。
顔で笑い、血を流すように心で叫んだ。
CR:5本部ビルの玄関ホールに靴音が響く。
俺たちの歩いた大理石には泥の足跡がつく。どこの田舎から出てきたんだろうって程に靴は汚れている。部下にコートを預け、念入りにブラシをかけるように命令した。「今年もウチの圧勝だったな。あんた票買ったの?」
床が絨毯敷きになって二人きりになるとジャンが上機嫌で話し始めた。
「いや――デイバン・ガーデン・フェアの人気投票に関して今俺はノータッチだ。カヴァッリ顧問がつきっきりだから、実力だろう。しかし見事だったね。この季節にあの薔薇は」
「爺様、ほんと庭好きだもんなー。はは、ここのところ何連勝? 俺、実は毎年楽しみなんだよね、コンテスト。花ってすげえキレーじゃん」
花よりおまえのがずっとずっとキレイだけどね。
こう囁いて、顔を真っ赤にして怒るのも見たいが、心の中で思うだけにしておく。
「ガーデンフェア…。そういや、昔俺図面盗んだことあったっけね?」
「ああ。あったね。それで俺はおまえに上等のシャツを買ってやる羽目になった」
思い出して笑いがこみ上げる。あんな嘘芝居に簡単に引っ掛かったなんて、俺らしくなかったね。
「あれすっげー着心地良かった。型くずれもしないし。俺、まだ持ってるんだぜ?」
「本当に? それは光栄だ。はは」
今の俺ならジャンにあのシャツを本当にダース単位で買ってやれる。いつかそうしたい、そう出来る自分になりたいと思ったのを思い出し、幸せに笑みが浮かんだ。
「急いで、ジャン」
二人で廊下の突き当たりの幹部専用エレベーターに乗り込む。カシャン、と、自分でドアを閉めてボタンを押すと小さな部屋は最上階のジャンと俺専用フロアへ登り始める。エレベーターを降り、廊下を歩きながらジャンはネクタイの結び目を解く。
「あーあ。しかし、酷いね。海風どうにかならないのかね。急拵えだから砂埃が飛ぶ飛ぶ」
「ああ、服が台無しだね。急いでクリーニングさせないとな。あ、ちゃんと目を洗って来いよ、絶対擦るなよ。それと、コンプレートは焦げ茶のストライプがいいね」
自分の部屋のドアノブに手を掛け、振り向きながら言うとジャンが立ち止まった。
「うん。ああ、この前誂えたヤツね。…ベルナルド…、…次は何だっけ?」
「会議と銀行との交渉の後、夜は晩餐会。ちなみにフレンチ。その前にまた着替え」
「了解」
ジャンは立ち止まったままだ。金髪頭を振ると背中を見せたまま言った。
「――な…、おまえの部屋で目、洗って、も――いいか?」
え?
これは、まさか――。いや。もしかして期待してもいいのか?
「…目を洗うだけじゃ済まなくなるけど…、いいのかい?」
「時間は?」
「ああ、大丈夫。ガーデンフェアを早めに切り上げて来たから五十分ある。それにこのフロアには今誰もいない」
「あ? ああ…はは。んー、六日間お預けだったからなー。ちきしょう。ベルナルドにこんな身体にされた俺、正直可哀想…。はは!」
「ふはは、可哀想なのか? いつもあんなによがってるのに?」
「ベルナルド!」
拗ねた目で睨まれて苛めるのは止めにする。俺だってジャンとセックス出来ない時間が長すぎて長すぎてもう限界だった。五十分間十二分に楽しみたい。
笑いながらドアを開ける。
ジャンが上着をソファに投げ置き、靴を脱ぎ捨て、寝室に向かう。腰の細い後ろ姿を見つめ、今からどういうふうになかせようか、この六日間思い描いていたことをどう再現するか考えていた。「あ!?」
クローゼットの奥に手を伸ばした瞬間、背中からジャンの素っ頓狂な声が響いた。
何だ?
ワセリンの瓶を左手に持ち、慌てて振り向くとジャンの後ろ姿がぶるぶる震えている。
「怪しいものには触るな! どうした?」
「………ベル、ナルド…これ…」
振り向いたジャンを見て、自分があり得ないミスを犯していた事に気がついた。一瞬にして顔から全ての血が引いた。続けて冷や汗が流れ始める。
「…これ…ってさ、俺の記憶に間違いがなければだけど、さ…。もう何年も前にウエスになってるはずのシャツじゃ…ね?」
初めて思う。――ああ、ジャンの記憶の確かさが憎い。
その通りだよ、あの時俺はシャツをこっそり持って帰ったんだ。
俺の気まずい無言は肯定を意味している。
そうだよ、六日もおまえが隣に居なかったんだ。俺は久しぶりにジャンのシャツを『使う』しかなかったんだ。そして、今朝はシーツを自分で換え、いつジャンと使うかどうか分からないベッドを文句の付けようなく軍隊式で整えた。終わった瞬間内線電話が鳴り、内緒の宝物――ジャンの古シャツをベッドの上に置いたまま応答し、そのまま急いで階下に向かった。それでガーデン・フェアでジャンと会うまで仕事に没頭していたんだ。
――ああ、ああ!
俺だって可哀想だ!!
ジャンの身体が無いと生きていけなくなってる。「ジャン――それ、は、だな――」
「まさか……、俺の代わりにしてたとか!? 酷いわダーリン、不潔過ぎだわっ!」
「ジャン…」
どうやって申し開きをしようか全速力で脳細胞を動かす。最初に手違いだったと、捨てたのは俺の記憶違いだったと言い張ろうか。それとも返そうと思って出しておいた、とか――。夢中で作戦を練っているとジャンに抱きしめられた。少し埃っぽい匂いとコロンが混じった香りに恍惚として理性が飛びそうになるがかろうじて踏みとどまった。なんとか弁解しないと。
「ジャ、ン…?」
「ふふ。すっげーうれしーかも。欲しがってるの、俺だけじゃないって、さ。…分かったから…ね?」
「ああ、昨日はあのシャツを抱きしめて眠ったよ。そうしなければ耐えられなかった」
「バカだな…。そんなコトしたら欲求不満がヒドくなるだけじゃね? ふふ…」
鼻先を甘えるように擦り付けられた。ああ、取り繕う必要なんてもう無いんだな。
そのまま愛しいジャンを抱きしめるとキスをしてベッドに倒れ込んだ。心臓が壊れる程に幸せだ。甘い甘い恋人の喘ぎ声がすぐに脳内を塗りつぶし、俺たちはお互いに短いが濃密な五十分を味わった。
END
2012.3.18 のHARUコミの無料配布本に加筆修正したものです。多分二倍近く長くなってます。
ベルナルドもジャンも忙しいよね、きっと。姿は見えてるのに、手を伸ばせば触れる距離にいるのに触れない(むろん性的に)とか拷問だろーなー…ってことでww
2012.5.25 Up