想 い
written by
思 惟さま/ディラックハウス
サン・ラザール駅から市街地を遠巻きに丘陵地を行く見晴らしの良い列車の中で、オリヴィエは買ったばかりの小さな包みを開いた。
黒い紙箱の中、無造作に薄紙で包まれたアクアマリンのブローチ。永い間、放って置かれたせいで石の表面や銀の台座は薄汚れている。
それでもその水色の石は光を我が身に透かせて懸命に輝いていた。
次元回廊の彼方で見つけた遠い星のお気に入りの国。オリヴィエは時折この街を訪れていた。ただぶらりと歩いたり通りすがりの店を冷やかしたり。時折思わぬ掘り出し物に出会う。古ぼけた骨董屋のショーウィンドにひっそりと眠っている遠い昔から託された美しい贈り物にオリヴィエは溜息をつく。
「あれは? ちょっと見せて貰える?」オリヴィエはガラスケースの角のブローチに目を止めた。店主はそれを取り出すと羅紗の貼られたトレイの上にそっと置く。
「アンティークがお好きならこれなどはいかがです? ずっと見栄えがしますよ」
と同じガラスケースの中から違うものを取り出して同じトレイに置いた。
それは十字架の形のペンダントで中央にサファイヤそして周りにダイヤがあしらわれている。アンティークならではの品のあるデザインが良い味を出している。それを横に並べられては、先ほどのブローチは凝った細工もなく見劣りがする。
「綺麗ねぇ」オリヴィエは思わずそのサファイヤのクロスを手に取った。
その青い石に合う衣装を頭に思い浮かべながらオリヴィエはそれを半ば買うつもりでなんとなく最初に気になった方のブローチを手に取った。銀の台座は灰色に変色して、所々に黒い点のようなものが見える。
その水色の石も埃にまみれて薄汚れたように見えるが、オリヴィエが少し指で擦るとその部分だけ恐ろしいほどに透けて見えた。
「アクアマリンだね」
「はい、以前の持ち主はガラス玉だと思っていたそうで、何の手入れもなく引き出しの奥に放りっぱなしにしていたそうで、古道具と一緒に最近ウチに売られて来たんですよ。その持ち主の話だと、その人の爺さんの爺さんだかが、貴族の物だとかなんとか言ってたらしいですよ」
「うーん」オリヴィエは薄汚れたブローチを手にして不思議な感触に捕らわれた。
「少しお高くなりますがこっちのクロスの方が絶対にいいですよ」
「そうだねぇ、でも困ったな、なんだかワタシが買ってあげなくちゃならないような気がする・・・」オリヴィエは窓辺に立ち、そのブローチを光に透かして見た。
「あの・・・ハッキリいいますけどね・・・その売りに来た持ち主の爺さんの爺さんは革命当時、処刑された罪人の後始末なんかをしていた人でね、金目のものなんかがあると搾取してたらしいんですよ、そのブローチも処刑された貴族の遺品らしいんですがねぇ実は石だけ取り外して再加工に出そうと思ってたんです」
店主は申し訳なさそうに白状した。
「あらら〜、そんな事言っちゃあ、買う気が失せるじゃない〜、バカね〜」
オリヴィエは苦笑しながら尚もブローチを手の中で転がし続ける。
「後で、呪いがどうのとか後味の悪い思いはしたくないんですよ、古い物にはそれなりに持ち主の念が籠もってるもんだと儂は思うんでね」
「非科学的な事を言うねぇ、でもそれが本当だとしたらこのブローチはワタシに買って欲しいと念を込めてるってワケかな、それじゃ買わない訳にはいかないよね」
オリヴィエは肩を竦めながら、ブローチを店主に手渡した。それを薄紙に包みながら店主は尚もサファイアのクロスを勧める。
「こちらはどうします?」
「買わない」
オリヴィエはサファイヤのクロスに向かって、「アンタもさ、買って頂戴ってお願いしてくれなきゃね」とウィンクした。
列車は終着駅ヴェルサイユに着く。
「やっぱり鏡の間が好き、ヴェルサイユは。アタシの部屋もこんな風に改装しようかな」
中央のドアにまでも貼られた鏡の前に立ち、部屋全体を見渡す。午後の穏やかな日差しが部屋全体を幻のように包み込んでいる。鏡と鏡の縁をそっとなぞった瞬間、オリヴィエは向かい合っていた鏡に人が通り過ぎるのを見た。
「あら、綺麗なゴブラン織りの上着」オリヴィエが振り返るとその人物は軽くオリヴィエに頭を下げて、鏡の中に消え去った。
「え?ちょっとぉ」オリヴィエは鏡の前に立ち尽くす。
鏡の中に写る自分の顔、その向こうで先ほど後ろを通り過ぎた人が憂いを湛えた瞳で見つめている・・・オリヴィエは軽い眩暈を感じ、その苦痛から逃れるためにきつく瞳を閉じる。
湾曲した腕木にはアカンサスの葉と月桂樹の金の飾り、共鳴胴に描かれた四季折々の花々、細部にまで装飾された美しいハープがその部屋の中央に置かれている。
リュミエールはその音を確かめながら、このハープの持ち主がやってくるのを待っていた。
”今日は私の親しい方ばかりのサロンなの、お願い出来るかしら?”と王妃は言った。その後、”貴方の演奏を聞くのもこれが最後になるかも知れない・・・”と呟いた。
国庫が破綻し最近は小さなサロンばかりで華やかな宴は開かれない・・・。時代の大きなうねりはリュミエールのような片田舎の小貴族の家にも確実に迫っていた。
(自分のハープ演奏が女王陛下の目にとまっていなければ、この時代にあっては、もはや貴族とは名ばかりの自分の生家は取り潰されていたに違いない。妹たちの嫁ぎ先が良家に決まったのも今こうしてナデルマンの造ったこの見事なハープを奏でることも出来なかったに違いない)とリュミエールは思った。
その時、華やかな笑い声、裾を引くドレスの軽やかな音と共に王妃は数名の婦人を引き連れて部屋に入ってきた。
「さぁ、皆様、気分を変えましょう、リュミエールの演奏をお聞かせいたしますわ」「まぁ、それは楽しみですこと」「いつぞやの女王陛下との連弾はお見事でしたわね、またお聞かせ下さいませ」
一行はリュミエールを取り巻くように座り、また口々に、リュミエールや王妃の演奏の素晴らしさを褒め称えた。
リュミエールはにっこりと微笑むと静かに弦にその細い指をかける。午後のお茶会に相応しい明るく楽しい小曲をつま弾いた。
側仕えが婦人たちにお茶とお菓子をしずしずと運んで来る。わざと田舎風に質素な付け絵で造らせた、実は大層手の込んだ茶器、繊細な細工が施されたハープ、東洋の田園風景を織り込ませたタペストリー・・・この部屋にある美しいもの全てが今となってはもの悲しく感じる。
そんな中でリュミエールは王妃のお気に入りの組曲を奏で始めた。
王妃の愛した綺麗な旋律とボンボンの入った銀器を勧め合う婦人たちの小さな囁き、時折聞こえてくる小鳥の囀り・・・世間から隔離されたこの一室にあり、リュミエールは美しいものへの惜別を込めてハープを弾いた。
それを打ち砕くかのように突然、ドアが開け放たれ、蒼白な顔をした女官が入ってくる。
「あの、王妃さま、暴徒が宮殿に向かっているという知らせが入りました付近の農民のようですが、衛兵が知らせにまいりまして・・・」
一斉に婦人たちは立ち上がり動揺の色を隠せない。
「どうぞ、皆様、お屋敷にお戻りくださいまし。近衛兵が馬車の用意をいたしております故。王妃様は奥の間に」女官が言うや、挨拶もそこそこに婦人たちは、ドレスの裾を摘んで足早に去ってゆく。
「陛下はどこにいらっしゃるの? 子供たちは?」
「陛下は狩りに出かけられてまだお戻りではありませんが、伝令が走っております、王子様たちはそれぞれのお部屋に教育係とともにいらっしゃいます」
「わかりました、それではわたくしたちも・・・」と言いかけて王妃は傍らのリュミエールがまだ目を閉じてハープを奏でているのに気づいた。
いつだったか・・・リュミエールはこう言っていた。
王妃は、いつもは控えめな彼が珍しくはっきりとものを言った時の言葉を思い出す。
(わたくしはハープを手にする時、神妙な気持ちになるのです。
わたくしの指から産み出された音という命がそのまま天に昇ってゆく様な気がします。天使たちが手を繋ぎ輪になって空に舞うような、音たちも後から後から生まれ出づる音色と 連なってゆっくりと空に舞い、風に運ばれ、雲と共に流れて天に辿り着くような
そんな気がしているのです。だから、私はいったん演奏を始めるとどんなことがあっても最後まで奏でてやらねばならないと思うのです。途中で止めてしまうと、そこまでの音たちは行き場がないような気がして・・・)
王妃は女官に毅然と下がるように伝えると、再びリュミエールの側に座った。
その気配にリュミエールは閉じていた瞳を開けて王妃に向かって、何とも言えないような優しい微笑みで小さく頭を下げた。
”わたくしは忘れません、今日と言う日を。貴女が王妃としてここにいらした事も全て ”
リュミエールはこの後この宮殿にあって王妃の為にハープを奏でる事は二度となかった。
二年後の秋空の美しいある日に囚われの塔から天に向かう王妃の為に祈りを込めて別れの曲を奏でたが、その音が王妃に届いたかどうかは知る由もない。
王妃専属の楽師と言うだけで革命裁判所に出廷を命じられたリュミエールは証拠品として出された王妃賜物のハープに傷を付けられて「美しい物を消し去ってしまう事があなた方の革命なのか」と叫んでしまうのである。
そして、彼もまた狂ってしまった思想の中に沈んでゆく・・・。
「これは母の形見の品なのです、ただのガラス玉ですよ」
胸につけた水色のブローチに手をかけてリュミエールは偽りを言う。一介のハープ奏者として宮殿に上がって間もない頃に、
”遠い異国から取り寄せたもので海の水と呼ばれている石です、貴方に似ているでしょう”
と王妃から賜ったものだとは決して言えない。
この透明な青さにリュミエールは心打たれた。何物も交じらない透明な石、こんな風にハープを奏でることができたら・・・。
リュミエールの心を捕らえた美しい石とそれに似ていると言ってくれた王妃への敬愛、自分はこの石を身に付けることでハープ奏者として駆け昇ってゆくことが出来た様に思う・・・リュミエールはどうしてもこのブローチをはずしたくはなかった。
看守もそういわれれば、こんなに透明な宝石などは見たこともないしただ王妃専属楽師と言うだけで処刑されるこの青年が哀れでもあったので身に付けて逝く事を許した。
鏡の前で項垂れてオリヴィエは深い溜息を付く。
「今、ワタシの心に映っていたのは何?まいったね・・・それなりの念が籠もってるって・・・ね」
誰かの机の片隅に忘れ去られて、薄汚れたブローチ。
変色した部分は彼の血を浴びたのかも知れない・・・、オリヴィエはポケットからアクアマリンのブローチを取り出して見つめた。
「わかったよ、ワタシが綺麗にしてあげるから大丈夫、いつまでも大事にするよ」
顔を上げると鏡の向こうにリュミエールが優しい目で微笑んでいる。
「ホントだ、貴方に似てるよ、このアクアマリン」
(お礼にハープを弾きましょう・・・)
オリヴィエには聴こえる、それは天に辿り着こうとする命の音。脆く壊れやすい様に思えるけれどいつまでも耳に残る美しい旋律。
「c'est la plus belle musique que j'aie jamains ecoutee・・・」(ワタシが今まで聞いた中で一番綺麗な曲だよ)
オリヴィエがそう呟くと、差し込んだ黄昏時の光と溶け合ってリュミエールの 幻は静かに消えていった。
FIN
初出■1997.3「リュミエールコレクション'97」(『腐りちゃん工務店』発行)
●このお話は、『腐りちゃん工務店』様の企画で、「リュミエールにいろいろな服を着せた絵を用意してその絵に後からお話をつけよう」というコンセプトのもとにつくられた「リュミエールコレクション'97」にお招き頂いた時に描いた絵に、思惟さんがお話を付けて下さったものです。「まず、絵、ありき」というシチュエーションがとても楽しかったです。
もう一枚、オリヴィエとリュミエールを描いたのですが、それを見た思惟さんが書いてくださったのが『水夢骨董堂細腕繁盛記1』の春の章です。
このページで使った絵は、一枚の大きな絵をカットして2枚にしたものです。
→大きい絵を見てみる
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